長野県長野市風間に鎮座する風間神社は、古くから人々の信仰を集めてきた由緒ある神社です。その歴史は深く、延喜式神名帳にも記載されている式内社として知られています。
基本情報
- 所在地: 長野県長野市大字風間上風間779
- 主祭神: 伊勢津彦命、級長津彦命、事代主命、倉稲魂命など
- 社格: 式内社(小)、旧村社
- 例祭: 10月1日・2日(秋季例大祭)
- アクセス: JR・長野電鉄長野駅からアルピコ交通(川中島バス)46系統乗車、「風間」下車徒歩2分
歴史と伝説:風神を祀る古社の謎
風間神社の創建年代は不詳ですが、社伝によると神代の昔、あるいは神武天皇の頃からの古社と伝えられています。 『日本書紀』には、推古天皇5年(596年)に「竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ」との記述があり、この水内神が風間神社であるとする説があります。また、『三代実録』には貞観2年(860年)に「飄別神に叙位」の記述があり、これも風間神社に比定されています。これらの記録から、風間神社は古くから風神を祀る神社であったと考えられています。
興味深いのは、水内神については、水内郡の名神大社である水内大社(健御名方富命彦神別神社)とする説もある点です。 風間神社と水内大社、どちらが正しいのか、あるいは両方に共通する要素があるのか、歴史の謎が深まります。
さらに、平安時代には持統天皇5年(691年)に勅使が派遣され、諏訪大社と共に風祝(かぜのはふり)の勅祭が行われたという社伝も残されています。 風祝とは、風に関する祭祀のことです。風間神社が、古くから風と深く関わりのある神社であったことを示唆する重要な史料と言えるでしょう。
鎌倉時代には、諏訪神家の庶流である矢島忠直が神領の庄司となり風間氏を名乗り、各地の風間氏の祖となったと伝えられています。 このことから、風間神社は風間氏にとって重要な氏神であり、地域社会と深く結びついていたことが分かります。
江戸時代には、社号が「諏訪社」から「風間大明神」に改称され、その後「風間神社」となりました。 この改称の歴史にも、様々な出来事や信仰の変化が反映されていると考えられます。
境内と社宝:神域に息づく静寂と歴史
風間神社の境内には、朱色の両部鳥居、複雑な屋根構造を持つ拝殿、流造の本殿など、歴史を感じさせる建造物が残されています。 本殿の左にはケヤキの大木と伊勢宮、右には猿田彦社と天満社の石祠があり、様々な神々が祀られています。 社宝として、石神像二体、薙鎌、舞楽面などが伝えられています。 社紋については、巴紋と梶の葉紋の二説があり、その由来も興味深い点です。
境内社には、伊勢宮、猿田彦社、天満宮、天牟羅雲社などがあり、伊勢との深い関わりを示唆しています。 天牟羅雲社は、ニニギノミコトの天孫降臨に際して供奉した神の一柱であり、外宮祇官である度会氏の祖神とされています。 これらの境内社は、風間神社の歴史と信仰の多様性を物語っています。
風間神社太々神楽獅子舞:文政時代から続く伝統芸能
風間神社には、文政5年(1822年)から続く「風間神社太々神楽獅子舞」という伝統芸能があります。 歌詞のない太刀を持つ雄獅子による舞で、1998年には長野市選択無形民俗文化財に指定されています。 この獅子舞は、地域の伝統文化を今に伝える貴重な存在であり、風間神社の信仰と歴史を象徴するものです。
風間神社と地域:地名と人々の暮らし
風間神社は、地名「風間」の由来にもなっています。 神社の祭神である級長津彦命が風の神であることから、この地が「風間」と呼ばれるようになったとされています。 神社は、地域の人々の生活と深く結びつき、信仰の拠り所として、また地域の歴史を伝える存在として、現在も大切に守られています。
謎と魅力:さらなる探求へ
風間神社には、未だ解明されていない謎も多く残されています。 創建年代、水内神と飄別神の比定、社紋の由来など、歴史研究の余地は十分にあります。 これらの謎を解き明かすことで、風間神社のより深い魅力が明らかになるでしょう。 風間神社を訪れ、歴史と自然に抱かれた静寂な空間の中で、古社の神秘に触れてみてはいかがでしょうか。
関連リンク・参考文献
[1] 風間神社~地名の由来 | 【公式】長野県長野市の古岩井整骨院
[2] 風間神社(長野県長野(JR)駅)のアクセス・お参りの情報 |ホトカミ
[3] 風間神社
[4] 風間神社
[5] 風間神社 (長野市)
[6] 風間神社 – Wikipedia
[7] http://kazamazinzya.life.coocan.jp/kazamazinnzya.pdf
[8] http://kazamazinzya.life.coocan.jp/