忘れられた聖地:樺太豊原市の西久保神社

かつて樺太(サハリン)豊原市(現ユジノサハリンスク)に存在した西久保神社。その名は、日露戦争で樺太防衛に尽力し戦死した西久保豊一郎陸軍歩兵少佐ら18名の英霊を祀った招魂社として、歴史に刻まれています。

基本情報

  • 所在地: 樺太庁豊原支庁豊原市豊原軍川(現在のユジノサハリンスク近郊)
  • 祭神: 西久保豊一郎少佐をはじめとする日露戦争で戦死した18名の将兵
  • 創建: 1907年(明治40年)7月12日、当初は斎場として創設。1915年(大正4年)に社殿が竣工し、鎮座。
  • 創立許可: 1922年(大正11年)2月11日(3月12日とする説も)
  • 例祭日: 7月12日
  • 社格: 無格社(神社行政上は招魂社ではなく通常の神社として扱われた)
  • その他: 樺太護国神社の筆頭祭神である西久保豊一郎少佐を祀っていたことから、特別な意義を持つ神社であったと考えられます。戦没地には「奥の院」と呼ばれる社殿も設けられていました。

歴史とエピソード

西久保神社の歴史は、日露戦争後の樺太における日本の進出と深く関わっています。1906年5月3日、軍川への入植が始まり、翌年には西久保豊一郎少佐を祀る斎場が設けられました。その後、1915年には社殿が完成し、少佐の遺品である軍刀が神宝として奉納されました。

1928年には戦跡記念碑が建立され、1931年には奥の院の神霊を本社に遷し、社殿を撤去して記念碑が建立されました。この年、閑院宮(かんいんのみや)の参拝もあったと記録されています。

しかし、1945年、ソ連軍による樺太占領により、西久保神社は廃墟と化しました。現在、その跡地はどのような状態にあるのか、具体的な情報は乏しく、謎に包まれています。

ミステリーと裏話

西久保神社に関する具体的な記録は限られています。神社の跡地や、そこにまつわる伝承、あるいは地元住民の記憶など、更なる調査が必要でしょう。 西久保豊一郎少佐の生涯や、18名の英霊たちの物語を掘り下げることで、西久保神社の持つ歴史的意義をより深く理解できるかもしれません。 また、神社の遺構や遺物が現存している可能性も否定できません。

西久保神社と他の神社との関係

西久保神社の祭神である西久保豊一郎少佐は、靖国神社、樺太護国神社、大泊表忠碑にも合祀されています。これらの神社との関連性を探ることで、西久保神社の役割や位置づけをより明確にできる可能性があります。

終章:忘れられたる英霊の鎮魂歌

西久保神社は、日露戦争という激動の時代を背景に、多くの犠牲を払って築かれた日本の歴史の一部です。その存在は、戦争の悲しみと、平和への願いを私たちに伝えています。 失われた神社の記憶を蘇らせ、歴史を未来へと繋いでいくことが、私たちの使命と言えるでしょう。 今後の調査によって、新たな事実やエピソードが明らかになることを期待しています。

関連リンク・参考文献

[1] 403 Error – Forbidden
[2] 西久保神社 – Wikipedia
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By ando