埼玉県本庄市北堀に鎮座する若泉稲荷神社。その歴史は古く、平安時代末期から続く由緒ある神社です。境内には、本殿の他に、八坂神社、手長神社、秋葉神社、天神社、護国神社、そして御嶽神社など、複数の摂末社が祀られています。しかし、若泉稲荷神社を語る上で欠かせないのは、750メートルほど南東に位置する奥宮、東本庄稲荷神社の存在です。
創建と変遷:歴史の波に翻弄された神社
若泉稲荷神社の創建は、治承4年(1180年)に武蔵守継行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際に、鎮守として勧請されたことに始まります。その後、天正18年(1590年)、小笠原掃部太夫信嶺が本庄城主となると、旧領主が勧請した神社として崇敬され、現在の社地に社殿が建立されました。明治時代には村社に列せられ、「若泉稲荷神社」と命名されました。鳥居の額は、当時の埼玉県令千家尊福公の筆によるものと伝えられています。
明治42年(1909年)、県の指導により東本庄稲荷神社を合祀しましたが、これが祟りの始まりでした。遷座の際に7人が亡くなり、村に火事が頻発。宮司の夢枕に東本庄稲荷大神が現れ、祟りであることが判明し、大正15年(1926年)に東本庄稲荷神社は奥宮として元の場所に戻されました。この時、県費によって奥宮橋が建設されましたが、現在は欄干が撤去され、ガードレールに変わっています。
昭和30年代初頭には台風で社殿が倒壊する出来事がありましたが、周囲の民家には被害がなく、拝殿だけが倒壊したことから、霊験あらたかな神社として信仰を集めています。
霊験と祟り:神様の怒りと恵み
若泉稲荷神社は、霊験あらたかな一方で、祟りも早いことで知られています。合祀と還座のエピソードは、神様の怒りと恵みの両面を物語っています。境内には、これらの歴史を物語る数々の逸話や伝説が語り継がれています。例えば、拝殿再建時の大工の選定にまつわる話や、平成の初め頃まで記録されていた霊験談など、地元住民の間では様々な話が伝えられています。
謎めいた彫刻:本殿の謎
本殿の彫刻にも注目です。三蘇(蘇洵とその家族)や黄石公と張良、福禄寿三星といった中国の故事が描かれています。これらの彫刻が何を意味するのか、様々な解釈が可能です。家族の繁栄、知恵と成功への願い、長寿と富といった、人々の願いが込められているのかもしれません。これらの彫刻は、単なる装飾ではなく、神社の歴史や信仰と深く関わっていると考えられます。
アクセスとその他
若泉稲荷神社は、本庄早稲田駅から徒歩約15分の場所に位置しています。境内には、若泉幼稚園も併設されています。子供たちの賑やかな声が、静かな境内を彩っています。
まとめ
若泉稲荷神社は、長い歴史と数々の逸話、そして謎めいた彫刻を持つ、魅力的な神社です。霊験あらたかな一方で、祟りも早いという側面も持ち合わせており、神様の存在を身近に感じさせる場所と言えるでしょう。本庄を訪れた際には、ぜひ訪れて、その歴史と神秘に触れてみてください。
関連リンク・参考文献
[1] 若泉稲荷神社(埼玉県本庄市) | 古今東西 御朱印と散策
[2] 若泉稲荷神社 – 本庄市/埼玉県 | Omairi(おまいり)